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認知症医療:「告知」と「覚悟」

「覚悟」のうえに成り立つ関係性
認知症医療での「告知」と「覚悟」というテーマで考えてみたいと思います。

参加者は限定的ですが、毎月第1金曜日のがん緩和ケア症例検討会は5月で第26回目となりました。

この会でも、がんの予後の「告知」についてしばしば大激論になることがあります。

予後の長短はあるものの、認知症の支援においても「告知」と「覚悟」が不可欠です。中島先生は「本来、緩和ケア、難病ケアにおける告知の目的は、患者との信頼関係を作ることにある」(中島 孝:緩和ケアとは何か. 難病と在宅ケア, 9(8) : 7-11, 2003.) と述べています。相手を思いやりながら伝える過程で、医療従事者は患者さん、家族から信頼を得ます。不可逆的に悪化していく病態に対して適切な援助を継続するためには、この信頼関係が不可欠であり、だからこそ告知は重要だと思うのです。

認知症医療で告知の一番の目的は、「疾患の受容」や「死の受容」ではなく、患者さん、家族との信頼関係のもとで、認知症になってもひとは生きている限り適切なケアが受けられ、幸福にすごせるという価値の共有にあると思います。避けられない病態の進行、老化と寿命としっかり向き合いながら、治せないことを共有したうえで、最期までどう生きるかを本人、家族と一緒に考えていく姿勢が大切です。

そして、この「告知」を行うことは、同時に「覚悟」を求められます。いつか必ず訪れる”天寿”や”看取り”という”ゴール”を、本人も家族も「理解」するのではなく「覚悟」するのです。覚悟が決まれば大抵のことは乗り越えられるものです。そして、この「覚悟」は私たち支援者にも求められます。主治医は初診で「初めまして」の瞬間から看取ることを、施設職員は入所の時点から「巡回時に亡くなっている日がくること」を覚悟すべきです。

また、認知症で独居の方の在宅支援の最期は、ヘルパーさんが訪問した際に「眠るように亡くなっている形」で終わるものです。これらは、本人や家族、そして私たち支援者の「覚悟」のうえに成り立つ関係性なのではないでしょうか。