私は、平成8年から12年まで、佐田岬半島の中央部に位置する、現在は伊方町と合併しましたが、旧瀬戸町の国保診療所に勤務しておりました。

ここでの、4年間は私にとって大きな転換点になりました。そこでは、保健センター、診療所が中核となって住民相互の助け合いの精神が息づいており、隣近所で介護の助け合いをするとか、独居の高齢者を昼は一人にさせないために、お茶を飲みにたずねるとか、住民の輪が自然発生的に生まれていることに、都会生活が長かった私にはとても新鮮でした。

これはチームワークばかりではなく、ネットワーク形成、そのためには足を使ったフットワークが大切であり、北海道大学の前沢先生はこれを「ワーク3兄弟」と名づけておられます。

また、私達のクリニックで、終末期のがん緩和ケアを含めて在宅往診で関わる患者さんから学んだことがあります(図13)。

これまで、私たち医師が取り組んできたモデルを医療介入モデルとするならば、終末期にあるがんの患者さん、高齢の患者さんの診療にあたるとき、医療介入モデルだけでは不十分で、生活支援あるいは自立支援モデルといったものが必要であることがわかりました。

私は、平成8年から12年まで、佐田岬半島の中央部に位置する、現在は伊方町と合併しましたが、旧瀬戸町の国保診療所に勤務しておりました。

ここでの、4年間は私にとって大きな転換点になりました。そこでは、保健センター、診療所が中核となって住民相互の助け合いの精神が息づいており、隣近所で介護の助け合いをするとか、独居の高齢者を昼は一人にさせないために、お茶を飲みにたずねるとか、住民の輪が自然発生的に生まれていることに、都会生活が長かった私にはとても新鮮でした。

これはチームワークばかりではなく、ネットワーク形成、そのためには足を使ったフットワークが大切であり、北海道大学の前沢先生はこれを「ワーク3兄弟」と名づけておられます。

また、私達のクリニックで、終末期のがん緩和ケアを含めて在宅往診で関わる患者さんから学んだことがあります(図13)。

これまで、私たち医師が取り組んできたモデルを医療介入モデルとするならば、終末期にあるがんの患者さん、高齢の患者さんの診療にあたるとき、医療介入モデルだけでは不十分で、生活支援あるいは自立支援モデルといったものが必要であることがわかりました。